1.在宅介護を支える「ポータブル6軸粘度計」の開発
なぜ「とろみ」の正確な測定が必要なのか?
私たちが毎日何気なく行っている「食べる」「飲む」という動作ですが、加齢や病気によって飲み込む力が弱まる嚥下障害を抱えると、飲み物が誤って肺に入ってしまう誤嚥(ごえん)のリスクが高まります。 これを防ぐために欠かせないのが、飲み物に適度な粘り気をつける“とろみ調整食品”です。しかし、実はこの「とろみ」の強さを客観的に測ることは、これまで非常に困難な課題でした。
現場の悩み:ベテランの「勘」に頼るリスクを解消したい
現在、多くの病院や介護現場、そしてご家庭では、スタッフやご家族がスプーンでかき混ぜた時の手応えなど、いわゆる目測や勘でとろみの強さを判断しています。 しかし、とろみのつき方は、混ぜる人の力加減、飲み物の温度、時間の経過など、さまざまな条件で変化します。
- いつも通りのつもりだったのに、今日は少し緩かった
- 施設ではちょうど良かったのに、自宅で再現できない
こうしたわずかな誤差が、誤嚥性肺炎という命に関わる事態を招くこともあるのです。一方で、従来の精密測定器は非常に大きく高価であり、一般の家庭や小規模施設で使えるものではありませんでした。
MEMS 6軸センサーが拓く新技術
私たちは、この課題を解決するために「手のひらサイズで、プロ仕様の精度を持つ粘度計」を開発しました。その核となるのは、最先端ロボット技術にも使われる「MEMS 6軸力覚センサー(タッチエンス社・横浜市)」です。
これまでの機器は主に「回転させる力」だけを測っていました。しかし、とろみのある液体は、かき混ぜた時に多方向へ複雑な力が分散します。開発した試作粘度計は、液体の中でヘッドを「往復運動」させ、その際にかかる上下左右前後の「力」と、ねじれるような「モーメント(回転力)」の合計6項目を同時に測定します。特に往復運動によって生じる「回転モーメント」が、液体の粘り気を極めて正確に捉えることを突き止めました。これにより、小型デバイスながら、大型の精密測定器に匹敵する正確さを実現したのです。
どんな飲み物でも、温度が変わっても正確に
プロトタイプを用いて、さまざまな液体を使って性能を検証しました。基本的な液体としてニュートン流体(グリセリンなど)、介護現場で最も使われる液体として非ニュートン流体(とろみ水溶液)、時間や力で性質が変わる複雑な食品としてチキソトロピー性流体で計測を行いました。その結果、温度変化によって粘度が変わる現象もしっかりと検出できることが証明されました。つまり、温かいお茶でも、冷たいジュースでも、その時の「正確なとろみ」を数値化できるようになったのです。
これからの未来
このポータブル粘度計の普及により、私たちは以下のような社会を目指しています。
- 在宅介護の安心: ご家族が「今日の水分補給も、基準通りのとろみで安心」と数値で確認できる。
- 介護現場の標準化: 経験年数に関わらず、誰が作っても同じ適切なとろみを提供できる。
- 災害時の支援: 設備が限られた避難所でも、乾電池やモバイルバッテリーで動く小型デバイスがあれば、嚥下障害を持つ方へ安全な食事を提供できる。
結び
私たちは、この技術を、誰もが、どこでも、簡単に使える粘度計として社会に実装し、「安全に美味しく食べる」喜びを感じられる社会に貢献してまいります。
2.サルコペニア(筋力低下)の病態解明と時間軸をずらす試み
超高齢社会の大きな壁「サルコペニア」とは?
いま、日本の健康長寿を阻む大きな問題として「サルコペニア(加齢に伴う筋力・筋量の低下)」が注目されています 。「最近、歩くのが遅くなった」「ペットボトルの蓋が開けにくい」といった変化は、単に筋肉の量が減るからだけではありません。実は、筋肉の量が減り始めるよりも先に、「筋力の低下」が先行して起こることが分かっています。
鍵を握るのは、神経と筋肉の交差点「神経筋接合部(NMJ)」
なぜ、筋肉の量があるのに力が出なくなるのでしょうか? 私たちの研究では、その原因が筋肉そのものではなく、脳からの命令を筋肉に伝えるスイッチである「神経筋接合部(NMJ)」の変性にあると考えています 。老化が進むと、この接合部で神経伝達物質が減ったり、構造が壊れたり(脱神経)することで、命令がうまく伝わらなくなり、結果として筋力が低下してしまうのです 。
脳への「逆方向の情報」がスイッチを守る?
通常、神経は、脳から筋肉へ命令を送りますが、同時に筋肉からも今の状態を脳へ伝える求心性情報(固有感覚)が送られています。私たちは、運動障害を持つ特殊なマウスを用いた研究の中で、この筋肉から脳への情報(求心性情報)が減ることで、老化よりも早くスイッチ(NMJ)が壊れ始めるという現象を見出しました。すなわち、「逆に、この情報を増やすことができれば、スイッチの壊れるスピードを遅らせ、筋肉の若さを保てるのではないか?」と考えたことがこの研究の仮説になります。
顎(あご)の筋肉と足の筋肉、どちらが先に老いるのか?
この研究のもう一つの重要な点は、「顎(口腔領域)」と「四肢(足)」の筋肉を比較することです 。「オーラルフレイル(口の衰え)」は全身の衰えの入り口と言われますが、実は顎の筋肉のスイッチがどのように老いていくのかは、まだ詳しく解明されていません 。私たちは、レジスタンストレーニング(負荷運動)によってこの「求心性情報」を意図的に増やし、全身の筋肉と顎の筋肉で、それぞれどのように老化が食い止められるのかを検証しています 。
これからの未来
現在、運動や食事制限が老化予防に良いことは知られていますが、「なぜ、いつ、どの程度の運動が効くのか」という科学的根拠(エビデンス)はまだ不十分です 。 この研究によって、「求心性情報の増加がスイッチを守る」という仕組みが証明されれば、筋力を維持するために、効果的な運動負荷を数値で提案するなどの
効率的なリハビリ法の提案、そして健康寿命の延伸に繋がることが期待できます。
結び
日本は世界でも類を見ないスピードで高齢化が進んでいます。独自の実験モデルを用いて「サルコペニアの時間軸を遅らせる方略」を発信することは、先進国が抱える課題を解決する大きな一歩になると確信しています。私たちは、基礎研究の力で、誰もが最期まで力強く活動できる社会をデザインしていきます。
3.岩手の食文化と人を活かし、「一生おいしく食べる」地域を創る
「カムカム健康プログラム」は、高齢者のオーラルフレイル(口の機能の衰え)を予防し、健康寿命を延伸するための複合的な口腔保健プログラムです。本プログラムは、東京科学大学(松尾浩一郎教授)と松本歯科大学(増田裕次教授)が中心となって開発されたプログラムです。岩手医科大学では、2024年度より、研究協力機関として、本プログラムを岩手・秋田を中心とした北東北の地域社会へ導入し、地域に導入する活動を精力的に展開しています。
なぜ、いま「カムカム」が必要なのか?
北東北の高齢化率は、全国1位の秋田県、3位の青森県、7位の岩手県と非常に高く、一部の自治体では45%を超えるなど、全国平均(29.6% 2025年)を大きく上回るスピードで高齢化が進んでいます。各自治体では、介護予防に繋がる健康寿命の延伸が喫緊の課題となっています。
介護予防、介護が必要になる一歩手前の状態「フレイル」を防ぐカギは、実は「お口」にあります。食べこぼしが増えた、固いものが噛みにくくなった、むせることがある こうした些細なサイン(オーラルフレイル)を見逃さず、適切な対策を行うことで、いつまでも自分らしく元気に暮らせる未来をデザインできます。
プログラムの特徴:科学的根拠に基づく「行動変容」
単に知識を学ぶだけでなく、実際に「食べて、動いて、実感する」のが本プログラムの最大の特徴です。
| カムカム弁当の提供 | 「噛む食感を楽しみながら栄養もしっかり摂る」をコンセプトに、地域の仕出し屋やレストラン・カフェと協力して開発した特別なお弁当を提供します。 |
|---|---|
| 専門家による講話 | 歯科医師、歯科衛生士、管理栄養士が、噛むことの意義や栄養バランス、口腔衛生の重要性について分かりやすく解説します 。 |
| 効果の可視化 | プログラムの前後で「咀嚼機能」や「舌の動き」を検査し、数値で改善を確認します。 2024年の宮古市での実績では、全国トップのオーラルフレイル改善スコアを達成しました。 |
新たな挑戦:岩手県型「自律・自走型モデル」の構築
今後は、プログラムをより地域に根付かせるため、地域の食生活改善推進員(食改さん)を「カムカムアンバサダー」として育成する取り組みを強化する予定です。
外部の専門家に依存しすぎず、地域の人材で健康を守り続ける「岩手県型自律モデル」として、全国の超高齢化地域の模範となることを目指しています 。
これまでの実施・協力地域
| 岩手県 | 宮古市 | 久慈市 | 奥州市 | 陸前高田市 | 盛岡市 |
|---|---|---|---|---|---|
| 秋田県 | 八郎潟町 | 美郷町 | 大潟村 | 北秋田市 |
将来の展望
私たちは、このプログラムを通じて得られた知見を「社会実装マニュアル」としてまとめ、岩手県内および全国の自治体へ無償提供することを目指しています。 「食べる喜び」が地域全体の笑顔に繋がる。そんな未来を、私たちは地域の皆さまと共に創り上げていきます。
